インタビュー

莫邦富事務所

上海外国語大学卒業後、同大学講師を経て、85年に来日。日本にて修士、博士課程を修了。95年、莫邦富事務所を設立。知日派ジャーナリストとして、政治経済から社会文化にいたる幅広い分野で発言を続け、「新華僑」や「蛇頭」といった新語を日本に定着させた。また日本企業の中国進出と日本製品の中国販売に関して積極的にアドバイスやコンサルティングを行っており、日中の経済交流に精力的に取り組んでいる。

『蛇頭』、『「中国全省を読む」事典』、翻訳書『ノーと言える中国』がベストセラーとなり、話題作には『新華僑』、『鯛と羊』、自分自身の半生を綴った『これは私が愛した日本なのか』、『中国ビジネスはネーミングで決まる』などがある。

博報堂スーパバイザ。SMBCコンサルティング顧問。山梨県観光懇話会委員。石川県中国インバウンド研究会顧問。ニューコン株式会社(IT企業)社外取締役。一般社団法人 日中経済交流協会顧問。大妻女子大学特任教授。安徽省観光大使。

莫邦富 プロフィール

作家・ジャーナリスト。

1953年中国・上海生まれ。

ジャーナリストになるきっかけ

まず、ジャーナリストになろうと思ったきっかけについて教えてください。

日本に留学する前に中国の農村にいたとき、農村時代の後半はもうジャーナリストのような仕事をしていました。日本での留学の終わり頃に、日本に残ると決めましたが、ずっと日本にいる考えを最初は持っておらず、4,5年は日本にいるだろうという考えでした。就職をするのか、もっと自分で世界を知りたいという形でやろうか、当時は悩んでいました。

実は、当時、日本を代表する企業から入社の誘いを受けていました。新卒としての採用ではなく、スペシャリストとして採用していただけるとのことで、給料の面、待遇の面も非常に良かったです。先方の部長が直接面会に来て、しかも2週間考えてください、2週間後にお返事をくださいという猶予も与えてくださり、私が承諾するのを期待していた様子でした。

そのとき、日本にどのくらいいるのかも分からず、就職したらたぶん生活は安定するだろうという予想はつきました。しかし、せっかく残るならやっぱりもっと世界を知りたい、世界を飛び回りたいと強く思ったことは今でも覚えています。発音は悪いかもしれないが、日本語に対する理解や表現に関しては多少長所がありました。リスクはありましたが、自分でやっていく自信があったのです。そのような判断で、本格的にジャーナリストの仕事に復活しました。

その後、世界を知りたいという衝動に突き動かされてどのような取材をされたのですか?

一番早い取材は1990年くらいでした。当時は海外の中国人社会に関心をもっていたので、取材対象としては、海外に残った中国人でした。余談ですが、実は1992年に発行された、「日本職学生事情」という本は主に日本で就職を目指す留学生への取材でしたが、日本語で表現した初めての本で、日本語でどのように読者に興味をもってもらうか、どう表現したらいいか、いろいろと体験した思い出深い本でした。

日本だけに留まらず、海外中国人社会といっても、当時はそんなに就職している人もいないので、ほとんどが留学生でした。ただ直感で、その多くはやっぱり海外に残るだろうという予想がありました。関心を持つようになってから、そうこうしている内に90年ごろ、中国からハンガリーなどの東ヨーロッパに飛ぶ人が多いことに気づいて、どうしてなのだろうと興味津々になりました。世界を知りたいと思って、東ヨーロッパに飛び、1か月間かけて取材に行きました。1か月取材を通して、後半になると鉱脈にあたったという実感がわきました。これが、やがて「新華僑」という私の代表作になりました。私は“新華僑”という言葉を作り、新華僑の定義も作りました。永住資格を持っているかはさておいて、海外に長くいようと、世界を舞台にして雄飛しようとする人、永住資格を持っている人は新華僑だと定義しました。これは後々、この定義を中国政府も認めて一緒に使うようになりました。ただ、「新華僑」という本が出来上がったとき、取材した資料の半分しか使っていないことに気付きました。あと半分くらい残っているのです。取材したときの明と暗の資料があるとすれば、明のところを「新華僑」に使ったのです。ならば、もうひとつ本が書けるんじゃないか、とふと思いました。そこで書いたのが「蛇頭」でした。やがて、「蛇頭」の固有名詞は、日本に普及・定着していきました。

取材内容は、その後一貫して海外にいる中国人というテーマだったのでしょうか?

実は、1997年の香港返還後は、大きなテーマ転換をし、中国経済に目を向けるようになりました。97年以降は、主に中国経済を中心にやるようになりました。

当時は、香港返還が一つの時代の変わり目だととらえていました。香港は長い間中国の対外貿易の窓口でした。香港返還で一部の日本のメディアが香港の中国の窓口である役割をますます強化されるだろうという意見がありましたが、私は香港の窓口の役割はこれで終わりだろうという意見を持っていました。

実は、当時テレビ朝日という日本の大手テレビ局において香港返還に関する特別番組の企画に携わっていました。そこで私は、これからは中国を見る窓口はむしろ蘇州と広州ではないかと主張し、香港に行って取材するのではなく、蘇州と広州に行って取材するように提案しました。当時としてはとても飛躍した論理で、広州は当時とても立ち遅れていて、もし中国国内からとらえるなら、深圳にするべき、そして蘇州なら上海にするべきという意見が大半でした。しかし、私が出張で行ったとき、この広州と蘇州のこれからの発展には大きな潜在性があると感じました。それまでの私の実績をみて、かなり予言が当たっているということで採用してもらえました。いま振り返ると、ネーミングのほうはもう少しいろいろ工夫すれば珠江デルタと長江デルタといえたと思いますが、捉え方は間違っておらず、のちのち当たってきています。世界の工場というのは上海ではなく蘇州あたりになり、広州もそのあと急速に自動車工業を集約してきて、深圳はそこまでいかなかったという現状です。

日本企業と中国人学生を取り巻く環境の変化

25年前の日本の中国人留学生を取り巻く環境はどのようなものでしたか?

当時の中国人学生と日本企業を取り巻く環境は、今のそれとは確かに違っていました。例えば当時、私に声をかけて自ら部長が会いに来て食事に招待して2週間の考える時間をくれる、返事をお待ちしますとかそのような状態でした。

日系企業の多くはまだ中国に進出していない、もしくは進出し始めているところでした。

私が留学生時代、私を採用しようとしてくれた企業の医療機械分野の翻訳通訳の仕事を100%私が独占しており、それが数社ある状況でした。こういう日常、アルバイトなどで深い信頼関係を築くことができた結果として採用の話まで繋がったのだと思います。その意味では今の中国人留学生にはそのようなチャンスは滅多にありません。ただ、そのようなポジティブな面だけでなく、もちろんネガティブな面もありました。当時私たちの時代、就職しようと思っても例えばNHKに就職してはいけない、銀行も外国人採用はしない、大手企業も採用していても日本への帰化を前提に、それを約束してくれるなら採用しますよという状態で、外国人として採用することはまだまだ少なかったです。

当時は舞台も小さかったけど逆に留学生も少なかったため、その中のいわゆるエリートや評価された人にとっては逆に言えば非常にいいチャンスを与えられるという状況だったのです。当時の中国のすごい留学生は、これこそ本当の中国のエリートという状態でした。例えば自分のことを言うと、日本に来たときは上海外語大学の日本語を教えている教師でした。他にも、中国の政府の役所で働いている人や日本の貿易の担当窓口の人もいました。当時はこういった人が留学生として日本に来ていました。こういった人のどういったところがすごいかというと中国社会に入っているわけです。中国社会のシステムを動かしていたわけです。ですから、彼らは中国社会の当時の現状を知っていました。

次に、以前と比べて、現在の日本の中国人留学生を取り巻く環境はどのように変化したのでしょうか?

当時の状況と比べると、今はむしろ中国人学生が頭を下げてお願いするような状況になっています。今は、舞台は大きくなりましたが、競争も激しくなりました。ビッグチャンスをもらえる可能性も昔よりかは少なくなっています。これが私から見れば学生と企業をとりまく一番大きな変化であると思います。

現在の中国人留学生が犯している誤解が一つあると私は思っています。自分たちは中国を知っているつもりですが、私から見れば今の留学生のほとんどは中国語が喋れるけど中国を知らない人間になっていると感じています。企業から見れば、そのような人材に対しての魅力は減ってきているというのが現実だと思うのです。むしろ中国の現地で日本語のできる人を採用した方がはるかにいいと企業は思っているはずです。その理由は明快で、彼らは現地社会のことを知っているからです。

中国の日本企業からすれば、日本で割と高めの給料を出して中国人留学生を雇うよりは、もっと安いお金で中国の大学を出た人を採用する方がメリットを感じるということも考えられます。前提として、日本にいる中国人留学生はこのことを理解するべきであると思います。

では、上記を踏まえて、企業に求められる人材はどのように変化していったと感じますか?

私が留学生の頃は、マルチメディア的な人間で、企業の進出のことでもなんでも、様々なことに対応できる人間が求められていました。観光省との交渉とか情報の収集とか現地社員の募集とか、その業務は多岐に渡っていました。今は、業務自体が分業化されている時代です。会計事務所も中国に進出しています、弁護士事務所もできています、中国の労務市場も成熟してきています。ですから、採用した社員に、何もかも頼む必要はなくなります。逆に与えられた具体的な仕事をきちんとやれる人間、商法登録なら商法登録などの専門的知識を持っている人間が求められるようになりました。その意味では、中国人留学生はオールマルチ的な能力よりも、もっと専門的な能力を、アピールできるようになるべきだと思います。

日本企業で働くこと

日本企業の強みと弱みをどのように見ていますか?

日本企業の強みは、やはり職人精神やものを丁寧に作ることだと思います。弱みはローカル的な要素が非常に強いことです。外国人社員が入ってきてもどこか外人というイメージがずっと強く残っているように感じています。日本の有名な企業でも、中国に進出して十数年たってからようやく、「うちは外国人を正社員にする」と言い出して、しかも課長までポストを開放すると、2004年ころに自慢するように発言していました。その話を聞いて、もう唖然としてしまったことを覚えています。1999年に北京で取材したとき、マイクロソフトやオラクルなどのアメリカ系企業の社長・副社長はほとんど中国人でした。日本企業の弱みはこういうローカル的な部分、非インターナショナル的な部分だと思うので、そういった部分があることを覚悟したうえで付き合わなければならないと思います。今は状況も変わって来てはいますが、当時はそのような状況だったのです。

日本企業で働くことのメリットとデメリットをどのように見ていますか?。

メリットは、いったん日本の会社に入って正社員になった場合、出世願望がそこまでなければ、ほぼ生涯保障されるので、安定を求める人にとっては心配なく過ごせる環境だと思います。デメリットはやる気のある人にとっては舞台がそんなには大きくないことです。出世が遅い場合や、「まずは何年やってみろ」というような感じが残っている企業もまだあります。あと最後は女性にはですね、やる気満々の女性にとって、日本企業はそんなにいい舞台だと思えませんが、最近はちょっとずつ変わってきているというのも事実です。大手企業で働く女性もかなり増えてきています。もちろん実際細かい内容を見てみると、まだ契約社員とか、給料で差別化されているケースもまだある場合はありますが、昔に比べたらだいぶ解放されてきたという印象を私は持っています。

職得JAPANの読者へのメッセージ

読者の方々に何かアドバイスはありますか?

目先のことを見るよりも、将来の流れ、時代の流れを掴んでいくべきです。例えば、今日中関係が非常に厳しいですね。私が言うにはですね、98年から日本のメディアでも中国でも言っているのですが、日中間はこれから20年間関係がよくならないと思っていました。これは98年からいっていて、いまはもう十数年間、あともう少し行くと20年間。ですから今になって日中関係が悪い悪いというのは、わかっていたことではないか。私が好きなことわざは「一葉落ちて、天下の秋を知る」です。真夏に一枚の葉が舞い落ちるのを見たとき、「秋が来る」という風に理解すること、落ち葉があたり一面に敷き詰められていれば、むしろその時に春を予感しないといけないと思うのです。今、日中関係が非常に悪い中で、じゃあ20年後の日中関係はどうなるのか。20年先の日中関係を見ると、絶対ある方向性が見えてくるわけです。今の予測では2015年には、中国のGDPは日本韓国中国の合計の内約半分を占めるようになり、2018年には、東南アジアASEAN10か国+日本韓国インドの合計の内約半分を占めると言われています。これはさらに行くと。今の日中関係は中国がちょうど追い越したところで、中国側はそんなにパワーがついていない段階です。もう少し序列が安定すれば、中国も心的余裕が出てきて、日本ももう一度冷静に中国を見つめることができると思います。日本の民族性として、日本は自分より進んでいるものには本当に謙虚に学びます。今は国力の変化でちょうど変わり目で摩擦があるが、もうしばらくすると落ち着いてくるというのが私の意見です。なので、目先のことを見るよりも、将来の流れ、時代の流れを掴んでいってほしいと、これからを担っていく世代に対して思っています。

では、最後に読者のみなさんへのメッセージをお願いします。

国としての日本の魅力は昔よりは落ちていると思います。しかし、かといって、まだまだ日本の魅力はソフトパワーの面で、特に製造技術・運用技術という点では、世界の中で先を行っているというのも事実です。日本企業の一番良いところに、びっしり教えこむというところがあります。こういった良い企業と出会って、びっしり教えてもらってください。こういった感覚・能力は結局、どこの企業にも通じるわけです。ですから、自分の人生の舞台は、常に自分で選んでもいいですが、その中でも日本は、日本の企業は自分の人生を鍛えるための悪くない一つの舞台だと思っています。みなさんの明るい未来を願っています。

戻る

TOP